ルガーp08

概要
ヒューゴ・ボーチャードが開発した大型拳銃ボーチャードピストルを原型にゲオルグ・ルガーが改良・開発したもので、自動拳銃黎明期の成功作の一つであり、支点で二つに曲がって伸縮する“トグルアクション”式機構が大きな特徴である。その独特な機構の動きから、尺取虫の愛称で呼ばれた。

口径は9 mm、装弾数はシングルカラム・マガジンによる8+1発である。

使用弾薬は9mm×19パラベラム弾であり、20世紀から21世紀にかけて自動拳銃用の弾丸として広く使われているこの拳銃用弾薬は、元来はこの銃のために開発された。「パラベラム」とは、ラテン語の「Si vis pacem, para bellum(「平和を欲するなら戦争に備えよ」という箴言)」から採られており、「戦争に備える」の意味で、当時DWM社が商標化した。

なおアメリカの大手銃器メーカーであるスターム・ルガー(Ruger)社とは、日本語のカナ表記「ルガー」が偶然一致するだけであり、ゲオルグ・ルガー技師や製品を含め、両者は無関係である。
名称
口径からとって9ミリルガーとも呼ばれる。ヨーロッパ諸国ではパラベラムピストルとも呼ばれ、米国(及び日本)では単純にルガーと呼ばれる。

「ルガーP08」とはアメリカ合衆国でのパラベラム拳銃輸入元となった商社のストーガー社が、本来の名前である「パラベラム・ピストーレ」では市場においてインパクトが無いということで、ルガーの名を勝手に冠し、ドイツ軍の制式名「Pistole 08(ピストーレ ヌル アハト)」を略して付けたものである。しかし、「フォルクスワーゲン・タイプ1」をして「ビートル」と通称させた結果、後年にはフォルクスワーゲン社に名称が逆採用されたような風潮と同様、「ルガーP08」も、最早正式名称と言って良いほどに浸透している。

(映画)ヒトラー最後の12日間

1945年4月のベルリン市街戦を背景に、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーの総統地下壕における最期の日々を描く。混乱の中で国防軍の軍人やSS(親衛隊)の隊員が迎える終末や、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス一家の悲劇、老若男女を問わず戦火に巻き込まれるベルリン市民の姿にも焦点が置かれている。

ヨアヒム・フェストによる同名の研究書、およびヒトラーの個人秘書官を務めたトラウドゥル・ユンゲの証言と回想録『私はヒトラーの秘書だった(英語版)』が本作の土台となった。撮影はベルリン、ミュンヘンおよび当時のベルリンに近い雰囲気を持つロシアのサンクトペテルブルクで行われた。
ストーリー
本編に入る前に、主人公格の1人であるトラウドゥル・ユンゲの「若い頃の自分を諌めたい。何も知らなかったから許されるということはないのだから」という回想の語りが入り、1942年に遡って物語が始まる。

1942年11月、ナチ党結成の地ミュンヘン出身のトラウドゥル・フンプス(ユンゲは結婚後の姓)は、東プロイセンのラステンブルクにある総統大本営ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)を訪れ、ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーの秘書採用試験を受ける。ヒトラーはトラウドゥルがミュンヘン出身だと知って彼女に興味を持ち、秘書として採用する。

1945年4月20日、トラウドゥルはヒトラー総統の愛人エヴァ・ブラウンや先輩秘書官のゲルダクリスティアンたち総統地下壕の同僚と共に、ヒトラーの誕生日の準備を進めていた。ソ連軍は既にベルリン近郊に迫っており、ドイツの敗北は時間の問題となっていた。各地からナチスの高官たちが集まっての誕生祝賀パーティーが開催され、国家元帥ゲーリングやSS長官ヒムラーなどの最高幹部たちは口々にベルリン脱出をヒトラーに進言するが、ヒトラーは頑なにベルリン脱出を拒否した。ヒトラーは高官たちに各地の防衛指揮を任せ、祝賀パーティーは終了した。

4月22日、地下壕ではソ連軍に対処するための作戦会議が開かれる。ヒトラーはベルリン周辺に駐屯するシュタイナー軍集団や第12軍に攻撃を命令するが、ヨードルやブルクドルフら将軍たちから「兵力が不足していて、攻撃は不可能」と指摘されて激怒し「常に私の邪魔をしてきたのが軍だ」、「将軍とは名ばかりで、用兵はまるでなっていない」、「ドイツ国民に対する裏切りだ」と将軍たちを罵倒し、「もはやこの戦争には勝てない。だが私はベルリンから離れる気はない。離れるくらいなら自殺する」と宣言して会議を終了させる。ヒトラーはトラウドゥルたちに地下壕から退避するように指示するが、彼女たちは退避を拒み地下壕に残った。

4月23日、「ゲーリングが総統権限の委譲を要求する電報を出した」という報告をボルマンから受け取ったヒトラーゲーリングの全権限剥奪と逮捕を命令した。高官から裏切り者が出たと地下壕に動揺が広がる中、軍需相でヒトラーの友人でもあるシュペーアが地下壕を訪れ、ヒトラーと退去の挨拶を交わす。シュペーアヒトラーから受けていたインフラ設備の破壊命令を無視していたことを告白してヒトラーと別れ、地下壕を後にする。

4月26日、空路でソ連軍の包囲網を突破したグライム将軍と空軍パイロットのハンナ・ライチュが地下壕に到着し、感激したヒトラーはグライムをゲーリングの後任の空軍総司令官及び空軍元帥に任命する。グライム元帥やゲッベルスエヴァ、トラウドゥルたちと食事をとるヒトラーの元に、ヒムラーが連合軍と和平交渉を行っているという報告が入る。「忠臣ハインリヒ」と呼んで信頼していたヒムラーの裏切りにヒトラーは激怒し、ヒムラーの逮捕と地下壕にいるヒムラー代理人であるフェーゲラインSS中将の逮捕を命令する。ヒトラーはグライムに前線指揮を命令し、エヴァとマクダはそれぞれ妹のグレートルと息子のハラルトに宛てた手紙をライチュ飛行士に託す。

グライムとライチュが地下壕を退去した後、トラウドゥルはヒトラーに呼び出されて遺書(英語版)のタイプを依頼される。トラウドゥルは自室で遺書のタイプをするが、そこにゲッベルスが現れ「総統と共に死ぬ」と告げ遺書のタイプを依頼する。同じ頃、愛人宅にいたフェーゲラインは逮捕され、義姉であるエヴァが助命を嘆願するが、ヒトラーはフェーゲラインを処刑する。

4月29日未明、ヒトラーエヴァと結婚式を挙げ、ささやかな祝宴を開く。トラウドゥルたちから祝福を受けたヒトラーは、市街地で負傷者の治療に当たっていた軍医のシェンクとハーゼ教授を呼び出し、自殺方法について相談する。一方、カイテルから「救援軍を送るのは不可能」との報告が齎されるとヒトラーはギュンシェに自殺後の遺体の焼却を命じる。

4月30日、ヒトラーは地下壕に残った人々と別れの挨拶を交わし、自殺するためにエヴァと共に居室に入る。トラウドゥルは気を紛らわせるため、ゲッベルスの子供たちと食事をしていたが、その最中に銃声が響き渡り、ヒトラー夫妻の死を知る。ヒトラー夫妻の遺体はゲッベルスたちによって地上に運び出され、焼却される。

5月1日、参謀総長クレープス大将はソ連軍のチュイコフ上級大将と停戦交渉を行うが、「無条件降伏以外は認められない」と返答され、交渉は失敗に終わる。地下壕の人々はベルリン脱出の準備を進め、ゲッベルス夫妻は子供たちを毒殺した後、自分たちも自殺する。トラウドゥルは官庁街防衛司令官・モーンケ少将の率いる第一陣と共に地下壕を脱出し、脱出する人々を見送ったクレープスとブルクドルフは共に拳銃自殺する。モーンケたちは敗残部隊と合流するが、ソ連軍に包囲されて降伏する。一方、トラウドゥルはシェンクやゲルダに勧められて包囲網を脱出し、無事に逃げ延びる。

5月8日、フレンスブルクに遷都したドイツ政府は連合国に対して無条件降伏を受け入れ、ドイツは終戦を迎えた。最後にトラウドゥル・ユンゲ本人のインタビュー映像が流れ、映画当時の時代を総括し、映画は幕を閉じる

ハインリヒ・ヒムラー

1900年10月7日 - 1945年5月23日)は、ドイツの軍人、政治家。ナチス・ドイツにおいて治安・諜報などで強大な権力を握った親衛隊のトップであり、国内統制と反ナチ勢力・ユダヤ人などに対する迫害を実行した。

概要: 生年月日, 出生地 ...
概要
1929年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の準軍事組織である親衛隊(SS)の第3代親衛隊全国指導者(RFSS)に就任し、党内警察業務を司った。ナチ党の政権掌握後には、1934年にプロイセン邦の秘密国家警察ゲシュタポ副長官、1936年には親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官に任命されて国内の警察機構を掌握した(ゲシュタポは全国の政治警察を直轄する組織となった)。政権末期の1943年にはヒトラー内閣内務大臣も兼務するようになった。ナチ体制は当初、一元的に統制されているとは言いがたい多頭制の様相を呈していたが、その中でヒムラー率いる親衛隊が次々に権限を拡大して優位に立ったことにより、ナチ体制は「親衛隊国家」の性格を色濃くした。

社会ダーウィン主義とアーリアン学説の影響を受けたナチスの人種イデオロギーは、アーリア人種、特にその一派とされた北方人種と定義された人々を主たる人種(ドイツ語版)とし、ユダヤ人、ロマ、スラヴ人は人種的に劣るとしたが、ヒムラーもまたそれらの人種的に劣るとされた集団を蔑視し、北方人種の優越性を信じていた。ヒムラー率いる親衛隊は水晶の夜事件以後、ナチスの人種政策に関与するようになり、ユダヤ人を国外退去させる任務に携わった。「北方人種」「アーリア人」として認定された者であっても、反ナチ運動家や障害者などは「人種の血を汚す者」として劣等人種とされた人々と同等に扱った。親衛隊の所管となった強制収容所(KZ)には、当初ゲシュタポが取り締まりの対象とした政治犯が主に収容されたが、同性愛者や浮浪者など「反社会分子」とみなされた人々やユダヤ人といった政治犯でない人々が収監者の多数を占めるようになった。

第二次世界大戦期には、ドイツが占領したヨーロッパの広範な地域にヒムラーの権力が及ぶこととなった。ポーランド侵攻に際しては親衛隊特別行動部隊がポーランド人を奴隷化するための知識人掃討作戦を展開した。占領地域での生存圏政策の執行においてもヒムラーは中心的役割を担い、親衛隊はドイツに編入されたポーランド西部からポーランド人とユダヤ人をポーランド中部の総督府領に追放させる任務に当たった。その後ユダヤ人の追放政策は絶滅政策に転換し、「生きるに値しない命」とされた精神障害者等を殺害する安楽死作戦に従事したスタッフが絶滅収容所建設のために派遣され、親衛隊はそこでユダヤ人等の大量虐殺(ホロコースト)を組織的に実行した。

アドルフ・ヒトラー

こんにちは今日はナチスドイツの総統アドルフ・ヒトラーについて解説していきます

 

1933年に首相に指名され、1年程度で指導者原理に基づく党と指導者による一極集中独裁指導体制を築いたため、独裁者の典型とされる。その冒険的な外交政策と人種主義に基づく政策は、全世界を第二次世界大戦へと導き、ユダヤ人などに対する組織的な大虐殺「ホロコースト」を引き起こした。敗戦を目前にした1945年4月30日、自ら命を絶った。

 

出生地はオーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州であり、国籍としてはドイツ人ではなくオーストリア人であったが、現在のオーストリア国民の大多数がそうであるようにドイツ民族に属する。首相就任前の1932年になってようやくドイツ国籍を取得している。 

第一次世界大戦までは無名の一青年に過ぎなかったが、戦後にはバイエルン州において、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首としてアーリア民族を中心に据えた人種主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになった。1923年に中央政権の転覆を目指したミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後は合法的な選挙により勢力を拡大した。

1933年には大統領による指名を受けてドイツ国首相となり、首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握した。1934年8月、ヒンデンブルク大統領死去に伴い、大統領の権能を個人として継承した(総統)。こうしてヒトラーという人格がドイツ国の最高権力である三権を掌握し、ドイツ国における全ての法源となる存在となり、ヒトラーという人格を介してナチズム運動が国家と同一のものになるという特異な支配体制を築いた。この時期のドイツ国は一般的に「ナチス・ドイツ」と呼ばれることが多い。

 

ヒトラーは人種主義、優生学ファシズムなどに影響された選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種が世界を指導するべき主たる人種(ドイツ語版)と主張していた。またニュルンベルク法や経済方面におけるアーリア化など、アーリア人の血統を汚すとされた他人種である有色人種(黄色人種・黒色人種)や、ユダヤ系、スラブ系、ロマとドイツ国民の接触を断ち、また迫害する政策を推し進めた。またドイツ民族であるとされた者でも、性的少数者、退廃芸術、障害者、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者は民族共同体の血を汚す「種的変質者」であるとして迫害・断種されさらに1937年の官邸秘密会議や著書『我が闘争』で示されているように、自らが指導する人種を養うため、旧来の領土のみならず「東方に『生存圏』が必要である」として帝国主義的な領土拡張と侵略政策を進めた。やがて1939年のポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦を引き起こし、大陸ヨーロッパの大半を占領した。この戦争の最中でユダヤ人に対するホロコースト、障害者に対するT4作戦などの虐殺政策が推し進められた。幾度か企てられた暗殺計画を生き延びたが、最終的に連合国の反撃を受け、全ての占領地と本土領土を失いヒトラー率いるドイツ国政府は崩壊した。ヒトラー本人は包囲されたベルリン市の総統地下壕内で自殺したが、その後生存していたという説も存在している

これがアドルフ・ヒトラーです

 

 

 

 

 

ナチスドイツ 親衛隊

元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。1929年にハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。ナチスが政権を獲得した1933年以降には政府の警察組織との一体化が進められた。保安警察ゲシュタポと刑事警察)、秩序警察、親衛隊情報部、強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれていた。1934年には正規軍である国防軍から軍事組織の保有を許可され、親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)を創設した。以降特務部隊以外の親衛隊員は一般親衛隊と呼ばれるようになった。

第二次世界大戦中、武装親衛隊がヨーロッパ各地で戦ったが、警察業務の親衛隊はドイツ及びドイツ占領下のヨーロッパ諸国において治安維持、反体制分子摘発、ユダヤ人狩りなどにあたった。戦時中に親衛隊は絶滅収容所アインザッツグルッペンを組織してユダヤ人の絶滅を図ろうとした(ホロコースト)。そのため親衛隊は悪名高い組織となり、戦後のニュルンベルク裁判では全ての親衛隊組織は「犯罪組織(英:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。21世紀に入って尚、隊員達は本人の死亡が確認されるまで犯罪者として追跡され、居所が確認されれば逮捕、裁判に掛けられている。

隊のモットーは「Meine Ehre heißt Treue(My honor is called fidelity:忠誠こそ我が名誉、我が名誉は忠誠を宣する事)」。